はじめに
今でこそ三笘薫や遠藤航・冨安健洋などが欧州トップリーグで当たり前のように日本人が活躍する時代になりましたが、その道を切り開いたのはパイオニアたちの勇気ある挑戦でした。
プロリーグすら存在しなかった時代に単身ドイツへ渡った奥寺康彦、「キング・カズ」の愛称で知られる三浦知良のセリエA挑戦、そして日本サッカーの可能性を世界に証明した中田英寿——。
この記事では、日本人選手の欧州挑戦の歴史を第1回として1977年から2000年代初頭のパイオニア時代を振り返ります。
奥寺康彦〜すべての始まりは1977年のケルンから
偶然が生んだ歴史的な移籍
1977年夏、日本代表はドイツで分散合宿を行っていました。当時の監督・二宮寛は、ブンデスリーガの名門1.FCケルンの監督ヘネス・バイスバイラーと親交があり、代表選手をケルンの練習に参加させる機会を設けました。
そこで25歳の奥寺康彦が紅白戦に出場したところ、バイスバイラー監督が即座に興味を持ちました。実はこの「練習参加」が、知らぬ間に入団テストを兼ねていたのです。
後に奥寺自身がこう語っています。「もし最初からテストだとわかっていたら、本来のプレーができなかったと思う」。
一度はオファーを断った奥寺でしたが、バイスバイラーの強い希望と周囲の後押しもあり、当時の日本にはプロリーグすら存在しない中、古河電工社員選手から世界最高峰のリーグへの挑戦を決意しました。同年10月7日、1.FCケルンと正式に契約を締結。日本人として初めてヨーロッパのトップリーグでプレーする選手が誕生したのです。
1年目から二冠に貢献
デビュー戦こそ散々な評価でしたが、奥寺はあきらめませんでした。転機が訪れたのはドイツカップ(DFBポカール)の準々決勝。2ゴール2アシストの活躍でチームメイトの信頼を勝ち取ると、そこからは別人のように輝きを放ちます。
1977-78シーズン、奥寺はケルンのブンデスリーガ優勝とDFBポカール(ドイツカップ)優勝の二冠に貢献します。特にリーグ優勝を決めた4月29日のザンクトパウリとのアウェー戦ではダイビングヘッドを含む活躍を見せ、このゴールは月間最優秀ゴールにも選ばれました。
翌1978-79シーズンには、UEFAチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)で準決勝に進出。「事実上の決勝」とも呼ばれたイングランドの強豪ノッティンガム・フォレストとのアウェー第1戦において、途中出場からわずか数分で貴重な同点ゴールを決め3-3のドローに持ち込みました。これはアジア人プレーヤーとして同大会での初ゴールとなる歴史的な一撃でした。
その正確無比なプレーと高い技術はドイツのファンを魅了し、「東洋のコンピューター」というニックネームを贈られました。
ブンデスリーガ9年間の足跡
奥寺はケルン(1977〜1980年)、ヘルタ・ベルリン(1980〜1981年、当時2部所属)、ヴェルダー・ブレーメン(1981〜1986年)の3クラブで9シーズンを過ごし、ブンデスリーガ通算234試合出場・26得点という記録を残しました。
ヘルタ・ベルリンはブンデスリーガ2部のクラブでしたが、その後移籍したヴェルダー・ブレーメンでは名将オットー・レーハーゲル監督のもとで再び1部の舞台に立ち、レギュラーとして活躍しました。レーハーゲル監督は奥寺についてこう評しています。「奥寺はどんなポジションでも起用すれば、すぐに対応できた。GK以外ならどこでも任せられた」。
所属した3クラブのそれぞれで貢献を果たしたという事実が、彼の実力の本物さを物語っています。GK以外のほぼ全ポジションをこなせるユーティリティプレーヤーとして重宝され、欧州の強豪クラブにアジア人が当たり前に存在する時代を、ひとりで切り開いていったのです。
帰国後も先駆け続けた「日本人初のプロ選手」
1986年に帰国後、奥寺は古巣・古河電工とプロ契約を結びます。当時の日本にはまだプロサッカーリーグすら存在しておらず、この契約によって奥寺は日本国内初のプロサッカー選手となりました。ドイツ仕込みのプロ意識と技術をJSL(日本サッカーリーグ)に持ち込み、引退後はジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)のゼネラルマネージャーなど指導・運営の面でも日本サッカー界に貢献し続けました。
そして2012年には日本サッカー殿堂入りを果たし、2014年11月にはAFC(アジアサッカー連盟)が新設した初代殿堂入りメンバーの10名にも選出されました。
三浦知良〜アジア人初のセリエAプレーヤー
外国人枠の壁に挑んだ「キング・カズ」
1994年、三浦知良(カズ)はアジア人として初めてイタリア・セリエAのピッチに立ちました。所属はジェノアCFC。
当時のセリエAは外国人枠がEU圏外国人を含め各クラブ3名という制限があり、オランダ人もスペイン人もポルトガル人もすべて「外国人扱い」という時代でした。そこに日本人が入り込むことは、想像を絶するほど困難なことでした。
移籍の経緯についてカズはこう振り返っています。
「代理人のマリオが2年くらいかけてずっとアプローチを続けてくれて、最終的にジェノアが1年間のレンタルという形で受け入れてくれた」。
ただし移籍の背景には、ジャパンマネーという現実もありました。ジェノアのユニフォームの胸スポンサーをKENWOOD(ケンウッド)が獲得するなど、商業的な側面もあったのは事実です。加入会見では「スポンサーを得るために獲得したのでは?」と辛辣な質問も浴びせられました。これに対してカズは後に「それも選手の価値でしょ」と堂々と答えています。
ダービーでの歴史的ゴール
1994-95シーズン、カズは21試合に出場し、アジア人初となるセリエAゴールを記録しました。それが同年12月4日のジェノヴァダービー(対サンプドリア戦)でのゴールです。カズはこの試合で先発出場し、サンプドリアから先制ゴールを奪いジェノアの勝利に貢献しました。
カズはその後も「あの興奮を今も覚えている」と語り、ジェノアのサポーターも30年が経った今でもカズの名を忘れていません。2023年には地元メディアのインタビューで「クリスマスを迎えるたびに市民たちが私に声をかけてくれる。『あのダービーでのゴールをありがとう』と」と明かしています。
1年という短い在籍ながら、カズはイタリアサッカー界に「日本という未開の地」への扉を開け、後に続く日本人選手たちへの道を切り開きました。
カズが残した足跡の意義
カズがジェノアを去った後も、その挑戦が持つ意味は薄れることなく、むしろ時代とともにより大きく評価されています。セリエAに挑んだ日本人はカズから始まり、現在まで14名にのぼります。カズがいなければ、中田英寿のセリエA挑戦もなかったかもしれません。
「日本サッカーは2年の歴史しかない。でも自分は戦える」と語ったカズの言葉は、その後の日本人選手たち全員の原動力となりました。
中田英寿〜世界が「NAKATA」を知った日
「謎の選手」が王者ユベントスを震わせた
1998年9月13日。中部イタリアの小都市ペルージャのスタジアムは、その日だけ東京のような熱気に包まれていました。日本代表として初参加したフランスW杯で世界に実力を示した中田英寿が、21歳でセリエAデビューを迎えたのです。
対戦相手は前シーズン王者のユベントス。デル・ピエロ、ジダン、インザーギ、ダービッツといった世界最高峰の選手たちが居並ぶ中、移籍したばかりの日本人MFは「謎の選手」として受け止められていました。雨の降るスタジアムには日本からかけつけた多数のメディアが押し寄せ、地元の観衆も半信半疑で若き日本人を見つめていました。
ところが後半開始直後、中田はその懐疑的な空気を一変させます。右サイドからの強烈なシュートでユベントスのゴールを破ると、さらに数分後には2点目も奪います。試合は3-4で敗れたものの、スタジアムには「ナカータ!」の大合唱が響き渡りました。翌朝のイタリアの主要スポーツ紙、『ガゼッタ・デロ・スポルト』と『コリエレ・デッロ・スポルト』は揃って「8.0」という異例の高評価を中田に贈りました。
1年目で10得点、そして新人賞と世界的評価へ
デビュー戦の衝撃は、単なる一発屋ではありませんでした。中田は1998-99シーズンを通して33試合に出場し、オーバーヘッドキックを含む10得点を記録。ペルージャのセリエA残留に大きく貢献しました。
その活躍は国際的にも評価され、イタリアの有力スポーツ誌「グエリン・スポルティーヴォ」が選ぶセリエA初年度の外国人選手を対象にした「セリエAサプライズ賞」にも輝きました。さらにバロンドールの候補にもノミネートされるという快挙も達成しています(中田はこの後、1999年・2001年にも候補に名を連ね、計3回のノミネートはアジア人選手最多記録です)。
ローマへの移籍とスクデット制覇
1シーズン半をペルージャで過ごした中田は、1999-2000シーズン途中にASローマへ移籍します。名将ファビオ・カペッロの強い要望での獲得でした。このときにはもはや「商業的な移籍」という疑いをかける者は誰もいませんでした。
そして2000-01シーズン、中田はASローマでスクデット(リーグ優勝)を獲得。日本人選手として初めて欧州5大リーグの優勝メンバーとなりました。ローマが18年ぶりの優勝を飾った最終節のパルマ戦においても、中田の貢献はイタリアのメディアから高く評価されました。
その後、中田はパルマ、ボローニャ、フィオレンティーナへと移籍を重ね、2006年のW杯直後に29歳という若さで現役を引退。
しかし彼がセリエAに残した足跡は、今なお色褪せることがありません。
3人のパイオニアが残したもの
奥寺康彦、三浦知良、中田英寿。この3人が切り開いた道があったからこそ、中村俊輔、稲本潤一、小野伸二、本田圭佑、香川真司、そして三笘薫や冨安健洋へとつながる日本人選手の欧州挑戦の歴史が生まれました。
| 選手 | 在籍時期 | 所属クラブ | 主な記録 |
|---|---|---|---|
| 奥寺康彦 | 1977〜1986年 | ケルン(1部)、ヘルタ(2部)、ブレーメン(1部) | ブンデスリーガ通算234試合・26得点、二冠、CLアジア人初ゴール |
| 三浦知良 | 1994〜1995年 | ジェノア | セリエA通算21試合1得点(アジア人初得点者) |
| 中田英寿 | 1998〜2006年 | ペルージャ、ローマ他 | セリエAスクデット獲得(日本人初)、バロンドール候補3回 |
「日本人なんていらない」——かつてドイツでそう言われた時代から、いまや欧州トップクラブで日本人が当たり前に活躍する時代へ。その変化の原点には、言葉も文化も異なる地で孤独に挑み続けたパイオニアたちの姿がありました。
彼らが直面した壁は、単純に「技術」の問題ではありませんでした。言語の壁、文化の壁、人種への偏見——それらすべてを超えた先に、「日本人でも欧州で通用する」という事実が積み上げられていきました。その積み重ねが、次世代への最大の贈り物となったのです。
次回は中村俊輔・稲本潤一・小野伸二の「黄金世代」の欧州挑戦を振り返ります。